余白を選ぶ

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第8話

余白を選ぶ

月曜日の朝、彼は会社へ向かう道で、いつもと違う景色に気づいた。通勤路は毎日同じはずなのに、今日は店先の看板が目に入り、工事の音が耳に届き、誰かの会話の断片が拾える。これまで、この道を通りながら何も見ていなかったのだろう。習慣のなかで風景そのものを手放していたのだ。

オフィスに着くと、デスクには月曜日の書類が積まれていた。いつもの業務に戻る。だが、ここでも同じことが起こっていた。毎月同じ判断を迫られ、毎週同じ会議に参加し、同じ成果を求められる。その流れに身を任せることは、楽だった。だから誰もが疑わない。

昼休み、屋上で弁当を広げながら、彼は考えていた。引っ越しで気づいたことは、単に物についてではない。時間の使い方、人間関係、仕事への向き合い方。自分がずっと「必要だ」と思い込んでいたものが、本当は必要ではなかったのではないか。

帰宅後、段ボール箱を再び開いた。あの食器は、そのまま残っていた。彼はそれを手に取り、じっと眺めた。親から与えられたもの。大事にしろと言われたもの。だが、今の自分に必要かどうかは、別問題だ。

決断は急がなくていい。その食器を新しい部屋の棚に入れることにした。親の声を切り離すのではなく、親からもらった思いは残しながら、使うか使わないかは自分で選ぶ。その自由が、ここにはあるのだと気づいた。

窓から見える街は、夜の帳が降りていた。ビルの灯りが一つ一つ点いていく。その光は、何万人もの人間が、何万通りの人生を生きていることを示していた。自分の人生も、その一つ。誰かの期待を満たすための人生ではなく、自分が選んだ人生。

彼は深呼吸をした。不要なものを手放すことは、悲しいことではなく、新しい余白を作ることなのだ。その余白に、何を入れるのか。あるいは、入れないのか。それは、これからの毎日のなかで、ゆっくり決まっていくのだろう。

(完)

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