第8話
第8話 引き算の先にあるもの
駅に向かう途中、いつもの喫茶店の前で立ち止まった。三ヶ月前なら、スマートフォンを取り出してSNSを開いていた場所だ。今、その時間は別の形で満たされている。
店の中を見ると、カウンター席に年配の常連客がいた。マスターとの何気ない会話が聞こえる。それは、かつての自分には映らなかった光景だ。スマートフォンの画面に視線を落としていた時間、こうした場面はいくつも通り過ぎていたのだろう。
コーヒーを注文して座った。隣の客が読んでいる本の背を何気なく眺める。ページをめくる音。カップの音。そうした細部が、今は耳に入ってくる。
これまでの三ヶ月を振り返ると、引き算は単なる「減らす」ことではなかったと気づく。何かを手放す度に、別の何かが浮かび上がった。空白は、単に空白ではなく、新しい注意の向け先だったのだ。
スマートフォンを手放したことで、確かに失ったものがある。だが同時に、見えるようになったものもある。その両方が、今の自分を形作っている。完全な選択ではなく、不完全な揺らぎの中で、少しずつ自分の形が決まっていく。ケーブルを引き出しに戻したのは、そうした状態を受け入れることだった。
窓の外は、いつもと変わらない街並みだ。だが目に映るものの密度が、確かに変わった。一つ一つが、より明確に、より深く感じられる。
コーヒーを飲み終えて席を立つ。駅へ向かう道すがら、ふと考える。引き算の日々は、いつまで続くのだろうか。その答えは、おそらく自分の中にはない。今この瞬間も、何かが足され、何かが引かれ、新しい『自分』が生まれている。
それでいい。その繰り返しの中にこそ、生きることの手応えがある。スマートフォンのない手で、風を感じながら歩む。何も完結していない。だからこそ、まだ先がある。
(完)
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