第8話
土の声を聴く
朝6時。私は由紀の畑に立っていた。
夏の日差しはまだ柔らかく、露が草に輝いている。由紀は無言で、くわを握らせてくれた。鍬の重さが手に伝わる。私は今までこんなものを持ったことがなかった。
「無理しなくていいですよ。畑は急かしません」
由紀の声が背中に届く。私は少しずつ土を返す。腰が痛い。手のひらが熱くなる。でも、その感覚は新しかった。消費の時間では感じたことのない、身体が在ることの実感だ。
昼過ぎ、由紀が麦茶をくれた。木の根元に腰を下ろして飲む。畑全体が見える位置から、この場所を眺めた。
「由紀さんは、ずっとここで良かったんですか」
私の問い掛けは唐突だったが、由紀は急いで答えなかった。長い沈黙の後、彼女は言った。
「途中で、街に出たくなった時期もありました。でも出かけてみると、いつも帰ってきたくなったんですね。理由は分からなかった。ただ、ここの方が私の声が聴こえるんです。本当の、ちっぽけな声がね」
その言葉が、私の中で何かを解き始めた。
あの都市での私は、常に誰かの声を聴いていた。情報も、評価も、期待も。それらが大きすぎて、自分の声など聴こえなくなっていた。引っ越してきた時、私はそれに気づいてさえいなかった。
今、週に何度かここに来るようになった。毎回、何かが変わっている。蕾が花になる。収穫が増える。でも本当の変化は、そんなことではないのかもしれない。
翌週、由紀は私に小さな苗をくれた。
「自分で育ててみませんか。トマトです。失敗するかもしれない。でも十年後、それが何だったのか分かるんじゃないでしょうか」
私は苗を家に持ち帰った。庭の片隅に場所を作った。毎朝、由紀のように土の様子を見る。葉の色を見る。
完璧さを手放した時、初めて見えるものがある。人生に必要なのは、答えではなく、問い続ける時間なのだと。
余白の時間は、決して空白ではなかった。それは、ゆっくり芽を出す時間。私たちが、ようやく自分の声を聴き始める時間。
来年の夏、私のトマトがどうなっているか。由紀と一緒に、土に向き合い続けよう。
(完)
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