第7話
名前の重さ
由紀の言葉は続いた。茄子の話から始まり、やがて野菜作りそのものの話へ移っていった。彼女は決して教えるのではなく、ただ自分の経験を語っていた。失敗したこと。予想外だったこと。それでも毎年、土に向き合い続けてきたこと。
「最初の頃は、完璧を目指していたんですよ」由紀は笑った。「でも土って、人間の計画通りには動かないんですね。むしろそこが面白くなるまで、十年かかりました」
十年という時間が、私には重く聞こえた。消費の時間に慣れた私たちは、変化を月単位、せいぜい季節単位で測る。しかし由紀は、十年の蓄積の中で、ようやく土と対話できるようになったと言う。
「ところで、あなたはどうしてここに」
急に問い掛けられた。私は一瞬、戸惑った。自分の引っ越しの理由を、まだ言葉にしたことがなかったのだ。疲れていた。物が多すぎた。時間が足りなかった。そんな断片的な感覚しかない。
「正直に言うと、よく分かっていないんです」
そう答えると、由紀は納得したように頷いた。
「そっか。名前も最初は要らないと思ってたのに、今は大事に感じてる。そういうことってありますよね。ここにいると、必要な物が少しずつ姿を見せるんですよ」
夕焼けが、畑と私たちを赤く染めていた。由紀は土のついた手で、自分の野菜たちを見つめていた。その表情は充足感と問い続ける目が混在していた。
翌日、私は初めて由紀の畑で、一緒に作業をした。手の使い方、土の触り方、季節の読み方。全てが新しかった。そして気づき始めていた。ここでの時間は、何かを習得する時間ではなく、何かに問い掛け続ける時間なのだと。
続きはまもなく
目次