第6話
翻訳の先へ
田中は廊下の奥を見つめたまま、しばらく沈黙していた。その沈黙が、単なる間ではなく、何かを思考する空間であることが、私には感じられた。
「足りない、ですね」と彼は静かに言った。「翻訳とは、本来、何かを失うものです。原文の揺らぎ、曖昧さ、その中に在るものが。でも、私たちがやっているのは、単なる言い換えではないはずなんです」
そこへ、佐藤が階段から上がってきた。彼の表情は、面談を終えた直後のものとは思えないほど冷静だった。
「君たち、まだいたのか」と佐藤が言う。その口調には、何かの提案が含まれているようだった。
田中と私は顔を見合わせた。
「実は、これから会議室に集まる人たちがいるんです。研究部門の若手メンバー中心で」と佐藤が続ける。「評価面談の制度についての、非公式な意見交換です。もちろん、参加は任意ですが」
金曜日の午後、通常ならば業務の流れも緩む時間帯。だが今、その時間帯が別の意味を持ち始めていることに気づいた。翻訳だけでは足りないという問いは、もはや個人の疑問ではなく、複数の人間が共有し始めている何かになっていた。
「行きますか」と田中が私に問う。その目は、廊下の奥を見つめていたときのまま、問いの途中にあった。
私たちは、佐藤に続いた。会議室へ向かう階段の先に、何が待っているのか、まだ誰も知らない。
続きはまもなく
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