余白の時間

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第6話

名前を交わす

朝日が野菜畑に当たっている。規則的に並んだ列の中で、ひとつひとつが微妙に異なる形をしている。その不完全さが、ここでは完全性より大切なものに思えた。

午前中、私は米の礼をするつもりで、都市にいた頃に愛用していたコーヒーを二袋、隣の玄関に置いた。添え状は書かなかった。何と書けばよいか、言葉が見つからなかったのだ。

それから三日が経った夕方、隣から声がかかった。

「これ、おいしいですね。毎朝飲んでます」

初めて、隣の女性と言葉を交わした。彼女は五十代だろうか。日焼けした顔に、細かい皺が刻まれていた。手には土がついたままだった。

「こちらこそ、米をありがとうございました。毎日おいしく」

「あ、そういえば名前、交わしてませんでしたね」

彼女が笑った。不思議なことに、ここまで名前がなくても違和感がなかった。むしろ、名前を知ることで何かが失われるような気さえしていた。しかし、今、目の前の人物が笑顔で名前を問い掛けてくる時間は、大切なものに思えた。

「私は由紀です。ここに来て二十年」

彼女の名前は由紀という。由紀は、私が都市から持ち込んだコーヒーを飲みながら、野菜作りの話を始めた。昨年の雨が少なかったこと。今年の土の状態。そうした細部の積み重ねが、一本の茄子の形を決めるのだという。

彼女の言葉に、私は聴き入った。これは情報ではなく、時間をかけて観察された何かだった。完璧さでも効率でもなく、ただ丁寧に重ねられた日々の痕跡。

夜、私は初めて、隣の畑を眺めながら長く考えた。引っ越して来た当初、自分は『余白』を求めていたと思っていた。しかし、今わかることがある。そこに何かが満ちていく過程こそが、本当に欲しかったものなのだ。

翌日の朝、由紀は野菜の苗をいくつか持ってきた。「一緒に作ってみませんか」と。

私は初めて、自分の土に手を入れることになる。

続きはまもなく

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