第2話
隣人
引っ越して一週間目の午後、玄関をノックされた。
前置きなく、窓から見ていた農家のおじいさんが立っていた。七十代だろうか。日焼けした顔に、深い皺がある。
「水道、出てますか」
その一言だった。私は戸惑いながら、水道を確認しに行った。蛇口をひねると、問題なく水が出た。
「大丈夫です」
と返すと、おじいさんは軽く頷いた。
「前の住人、いつも朝に水が止まったって言うてたんで。井戸が古いんです。この辺り、みんなそう。新しい人が気づかんうちにトラブルになる」
そこまで言うと、帰ろうとした。思わず、私は声をかけていた。
「ありがとうございます。えっと、何かご迷惑なことがあれば、いつでも」
おじいさんは振り返らず、返事をしなかった。ただ、手を上げただけだ。
その夜、私は初めて、この家が田んぼに囲まれていることの意味を考えた。都市では、隣人との関係は希薄だった。挨拶をすることもほぼない。だから、その男の言葉がやたらと響いた。
「前の住人」。この家には歴史があるのだ。おじいさんはそれを知っている。長く、ここに住んでいるから。
コーヒーを淹れ、折りたたみテーブルに向かった。朝とは違う、夜の静けさがある。窓の外は真っ暗だ。照明一つでは、部屋の隅まで明るくできない。その薄暗さが、前の家にはなかったものだ。
私は、この場所に何を求めていたのか。本当に、物を減らしたいだけなのか。
スマートフォンを手に取り、前の職場の同僚とのグループチャットを見た。やけにざわめいている。新商品の話。週末の飲み会の話。いつもと同じ。でも、その会話に入ろうという気がしなかった。
おじいさんの「気づかんうちにトラブルになる」という言葉が頭に残っている。
もしかして、私も気づかないうちに何かを失っていたのではないか。あるいは、この家に来たことで、初めて何かに気づき始めたのか。
明日の朝、また水が出るか確認してみよう。それから、おじいさんの田んぼでどんな作業をしているのか、聞いてみようか。
前の家では、明日のことを計画するのは常だった。今は、ただ明日が来るのを待つことができる。その違いが、何を意味するのか。まだ、わからない。
続きはまもなく
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