第7話
味わうということ
だ瞬間に、言葉になる。でも、その言葉だけじゃ、本当の味は伝わらない。だから、人は記録を残すんじゃないか。味わったその瞬間を、何度も思い出すために——
マスターの言葉が、彩の中で静かに広がっていった。
これまで彩は、読んだ本の内容を完璧に記憶しようとしていた。あらすじ、人物、場面。すべてを頭に詰め込もうとして、かえって何も残らなくなっていたのだ。
「記録って、完全な記録じゃなくていいんですね」
彩は、ノートを見つめながら呟いた。
「そうですね。むしろ、不完全だからいい。その時に心が動いた場所だけ。そこを言葉にする。すると、読む度に、その場所から物語が立ち上る」
マスターは、自分のノートのページをめくった。どのページも、短い断片ばかり。でも、その断片の周りには、白い余白がたっぷりとあった。その余白が、次に来た客の言葉を受け止めるように。
「本の内容を忘れるのは、悪いことじゃないんです。大事なのは、その本があなたの中で何かを揺らした、その痕跡。それを残す。すると、また別の場面で、その痕跡が光り始める」
コーヒーが冷めかけていた。彩は、もう一度ペンを握った。今度は、心を動かされた一場面を、ほんの数行で。完璧さを求めず、感覚のままに。
書き終わった時、彩は思った。
この喫茶店に辿り着いたのは、本当に偶然ではなかったのかもしれない。でも同時に、偶然だからこそ、ここにいるのかもしれない。
「また来てもいいですか」
マスターは、静かに頷いた。
続きはまもなく
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