第8話
第8話 声は、形を変えて響く
社内メールへの返信を書くまえに、もう一度、引き出しの中身を眺めた。
付箋、メモ、手書きのイラスト。どれもが誰かの試行錯誤で、誰かの優しさで埋まっていた。朝の体操だって、最初は一人の呟きに過ぎなかったのに、気づけば十人以上が集まるようになっていた。
組織に取り込まれることへの不安は、本当だ。決まった時間、決まった形式、上から下へ指示される健康推進プロジェクト――それでは、あの「声を聞く」という感覚が失われるのではないか。
だが、返信を書きながら、違う可能性も見えてきた。
これまでの工夫は、個人の領域に留まっていた。だからこそ尊いが、同時に、ほかの人に届きにくかった。三ヶ月肩が痛い同僚は、もっと早く誰かの工夫に気づけたかもしれない。別部署の人は、今も知らないままかもしれない。
組織の形式を得ることは、失うことではなく、むしろ、声を届ける距離を広げることではないだろうか。
朝の体操は今後も、その場にいる人たちが作る営みのままでいい。引き出しの工夫は、誰もが自由に付け足せる形で。プロジェクトという名前は、それを支える枠組みになるだけ。
返信を送信した。翌週、人事部との初めての打ち合わせの日程が届いた。
その日の朝、いつものように肩を回す。痛みは相変わらずあるが、それはもう、敵ではなく、対話の相手だった。
パソコンの前に座る自分の肩を、だれかが支えてくれる。その感覚が、今ここに、確かにある。個人の工夫は、誰かの実践に変わり、やがて組織の営みへと広がっていく。その流れの中で、最大切なのは、一人ひとりの声が消えないことだ。
朝日がデスクに差し込む。引き出しのメモが、かすかに光った。
(完)
目次