第8話
第8話 締切の向こう側
キーボードに手を置きながら、デザイナーは考えた。効率と信頼。すべてを同時に満たすことは難しい。だが、どちらかを完全に諦めることもできない。その葛藤の中で、本当の仕事が始まるのだと。
次の三週間は、想像していた以上に濃密だった。
顧客インタビューの記録を何度も読み返し、実際のレビューから言葉の端々を拾い上げ、デザインに落とし込んでいく。締切は変わらない。むしろ、新しい情報を組み込むたびに、時間は収縮していった。だが、以前のような焦燥感ではなかった。急かされているのではなく、導かれているような感覚。
クライアントとの打ち合わせは三度。最初の案を見せた時、ディレクターの表情が変わった。「これ、実際の声が入ってますね」と呟いた言葉が、すべてを物語っていた。修正指示は少なかった。微調整の段階で納期を迎えた。
デザイナーがこれまで経験した多くの案件では、完成から一週間後に「やはり変更をお願いしたい」という連絡が来ていた。今回、そうした電話はなかった。
初稿から完成まで、理想的なペースだったわけではない。夜中まで作業したこともある。締切の前夜、コーヒーを三杯飲んだ。だが、その疲弊の質が違っていた。やり直しの無駄ではなく、丁寧に積み重ねた実感。
プロジェクトが終わった夜、デザイナーはカフェに入った。いつもの席で、デスクトップの新規ファイルを開く。次の案件の仕様書が待っている。納期は一ヶ月後。
以前のデザイナーなら、その瞬間に計算を始めていただろう。作業日数を逆算し、一日あたりの工程を割り出し、締切という枠の中で自分をどう詰め込むか。
だが今、手は別のところにあった。メーラーを開き、クライアントへの質問状を作成している。「ターゲットについて、直接お話しいただけるお時間をいただけないでしょうか」。
コーヒーが冷めていく。締切は遠くではない。だが、それは到達地点ではなく、出発点だ。デザイナーは気づいていた。締切に追われることは終わらない。ただ、追われ方が変わるのだ。何のために、誰のために、何を作るのか。その根拠が先にあれば、締切はもはや敵ではなく、伴走者になる。
スマートフォンが鳴った。クライアントからの返信。「もちろんです。来週打ち合わせしましょう」。
デザイナーは返事を打った。期限は変わらない。ただ、これからの三週間は、昨日とは違う重さを持つだろう。
そのことが、ようやく、胸に落ちた。
(完)
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