第8話
夜明けまでの距離
朝六時四十分。田中は目を開けた。
昨晩は浅い眠りが続き、何度も時間を確認した。焦燥感は夜明け前まで消えなかった。だから今、起床時刻が遅れていることに気づいても、落胆は来なかった。むしろ、そのことすら自然に思えた。
洗面台で顔を洗いながら、鈴木の言葉を思い出した。「揺り戻しが来る」と彼は言った。昨晩がそれだったのだろう。完璧に改善された眠りを求めていた自分に、体が抵抗していたのかもしれない。
会社では資料作成の仕事が続いていた。昨日ほどの冴えはない。だが、耐えられないほどではない。むしろ、現在地をありのまま受け入れることで、無駄な力が抜けた気がした。
昼休み、鈴木が再び現れた。
「昨晩、寝られなかったろ」と言った。
「どうしてわかるんですか」
「顔に出てる。ただし、起きている。それでいい」
田中は何も答えなかった。
「習慣ってのはな。完璧を求めるから挫折する。毎日違う。その違いを受け入れることが、本当の習慣だ。一週間、一ヶ月、一年。その中で全体として少しずつ整っていく。そういうものなんだ」
帰宅後、田中はいつもの手順を踏んだ。運動をして、夜は静かに過ごす。十時に就寝した。
ベッドに横たわると、昨晩のような焦燥感は薄かった。眠りに落ちるまでの時間は、相変わらずある。だがそれを無理に断ち切ろうとしない。呼吸を感じながら、ゆっくりと流れていく時間の中にいた。
夜中に一度、目が覚めた。だが、すぐに目を閉じることができた。
朝六時三十分。窓の外は薄明るい。田中は起き上がると、いつもの朝日を見つめた。完璧ではない。けれど、続いている。それで十分だった。
キッチンで珈琲を淹れながら、田中は思った。夜明けまでの距離は、今も存在している。だが、それは遠さではなく、毎晩確認できるものになった。暗闇の中で、小さく灯りが見える。それだけで、歩き続けることができる。
(完)
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