第1話
第一話 不確定性原理
朝の駅で、いつものように混雑した電車に揺られていた。窓に映る自分の顔は疲れているように見える。三十四歳。現在の研究機関に勤めて八年目。論文の本数も悪くない。給与も昇進も順調だ。なのに、なぜか満足感がない。
配属された時、この研究室はまだ新しかった。可能性に満ちていた。チームも小さく、一人一人の意見が通った。しかし今は大きな組織になり、会議が増え、手続きが複雑になった。最近は承認待ちの企画書ばかり書いている。実験する時間が減った。
昨日、後輩から意外な相談を受けた。別の大学からスカウトを受けているが、今の職場を離れるべきか迷っているという。若い彼女に、私はどう答えればいいのか分からなかった。恵まれた環境を離れるのはリスクだ。でも、環境が必ずしも全てではないということも知っている。
転職のタイミングについて、かつて読んだ物理学の論文を思い出した。量子力学の観測問題だ。正確に測定しようとすればするほど、システムそのものが変わってしまう。キャリアも似ているのではないか。完璧な判断材料が揃う瞬間は、おそらく来ない。判断した時点で、既に状況は変わっているはずだ。
電車が揺れた。スマートフォンの通知を見ると、件のスカウトを仲介した人物からメールが届いていた。『お返事お待ちしています』
駅に着いた。いつもの研究室へ向かう足取りが、今日は少し重い。
続きはまもなく
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