第1話
第一話 忘れる恐怖
また忘れた。
『異郷の旅人』を読み終わった彩は、ページを閉じた瞬間、もやもやとした不安に襲われていた。面白かったのに。登場人物の名前も、物語の中盤の転機も、なぜか思い出せない。
「あ、あ、あ……」
スマートフォンのメモアプリを開いて、記憶を呼び戻そうとしたが、何も書き留めていない。感想も、引っかかった表現も、何もない。
図書館の机で頭を抱えた彩の隣に、突然、古びたノートが置かれた。
「読書メモ、取ってないんですか」
声をかけてきたのは、図書館でよく見かける先輩だった。いつも分厚い本を何冊も借りている人。
「あ、いえ。取り方がよくわからなくて……」
彩が素直に答えると、先輩は笑った。その笑顔は、まるで何か大切なことを知っている人の顔だった。
「ほとんどの人が、本の内容を書こうとするんですよね。でも、それって読み終わった後だと、もう手遅れなんです」
先輩はノートを開いた。ページには、色とりどりのペンで書かれた、奇妙だけど美しいメモが並んでいた。きちんとした要約ではなく、疑問符や矢印、時には絵まで混じっている。
「なにこれ……」
「読みながら、感じたことをそのまま記録するんです。『ここ面白い』とか『ここ理解できない』とか『このキャラ、なぜそう動いた?』とか。そういう、その瞬間の違和感とか引っかかりとか、そういう感情を逃さない」
彩は、先輩のメモを眺め続けた。確かに、きちんとした『記録』ではない。でも、ページを見ていると、その本を読んでいた時間が、生き生きと蘇っていくような感覚を覚えた。
「この方法なら、本を読み終わった後に見返しても、『あ、ここでこんなことを考えてたな』って思い出せます。本自体の記憶というより、本との対話の痕跡を残す、という感じですかね」
先輩はそう言って、ノートを彩に差し出した。
「試してみませんか。自分のやり方で」
彩は、その言葉に背中を押された気がした。
続きはまもなく
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