余白を選ぶ

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第8話

記録されないもの

雨は止んだ。

庭の水は引き、土は黒く艶を取り戻した。その朝、俺は段ボール箱を全て片付けた。だが、都市から持ってきた全てを手放したわけではない。選んだのだ。何を、この家に持ち込むかを。

手書きの家の履歴。登記簿。隣人が一緒に探してくれた古い新聞記事。それらはもう、次の記録ではなく、この家の声を聴く道具になっていた。

昼間、俺は家の中を歩いた。柱の傷。壁の日焼けの跡。天井の雨漏りの痕。全てが物語だった。だが、これらは記録されることがない。夜、また別の痕ができるかもしれない。消えるかもしれない。そのことが、ようやく心地よく感じられた。

オフィスにいた時、俺は成果を数字で測ろうとしていた。コード行数、解決したバグ、リリース回数。全て記録された。だが大事なものは、そこに含まれていなかった。同じ問題に頭を抱えた夜。チーム全体が黙って考え込んだ時間。そういう余白は、決して記録されない。

夏が来た。庭は緑に満ちた。隣人が野菜の苗をくれた。どれだけ育つか、誰にもわからない。でいい。

俺はこの家で、記録されない日々を重ねていくのだろう。その時間の中で、何かが積み重なっていく。形に残らないまま。だからこそ、それが本当だと感じられるようになった。

パソコンは今、物置に置いてある。時々、起動させる。だが急かされることがない。都市とのつながりも、細く続いている。ただ、以前のように全てを記録しようとはしない。

この家は、記録のない時間の中で、ゆっくり息をしている。そして俺も。

(完)

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