余白を選ぶ

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第5話

判断の先延ばし

翌朝、目が覚めたとき、床はまだ荷物で埋まっていた。

昨夜、判断を止めたはずの箱たちが、朝日の中でより一層、圧迫感を増している。昨夜は疲れていたから判断が曇っていたのだと思いたい。だが、朝になってもその圧迫感は消えていない。むしろ、新しい視点が加わったことで、より複雑になっていた。

例えば、あのギフトセットはどうだろう。朝の冷静さで見つめると、捨てることは「もらった人への感謝を失う行為」のように思える。同時に、使わずに置いておくことは「その感謝を、形だけで済ませている」ことではないか。

立ち上がり、水を飲み、再び床に戻る。今度は昨夜とは違う順序で箱を開けてみた。すると、気づいたことがある。捨てるか持つかの判断の前に、自分は別の問題を抱えていたのだ。

「なぜ、その選別が重いのか」という問いだ。

昨夜、他人の視線を気にしていた。自分の「選別基準まで評価される」という恐れ。つまり、何を捨てるかという決定が、自分という人間を定義してしまうのではないか、という無意識の不安。

しかし、朝になって気づく。その不安は、実はもっと古いものかもしれない。

子どもの頃から、親や学校の大人たちに「大事にしなさい」と言われてきた。もらったものは捨ててはいけない。必要になるかもしれないから取っておきなさい。そうした言葉が、心のどこかに積層していて、今、引っ越しという局面で一気に浮上してきたのではないか。

ギフトセットを手に取り、もう一度眺める。包装紙のデザイン、使い心地、そして「もらった時の状況」。その全てが、捨てることへの迷いを作っていた。

だが、それらはすべて「過去」だ。今の自分がそれを必要とするかどうか。その問いに真っ直ぐ向き合う前に、自分は過去の判断基準に従っていたのだ。

机の上に、小さなメモを置いた。「判断を止めるのではなく、判断を遅延させていないか」と。

午前中、何もしないことにした。仕事の連絡はいくつか入ったが、返さない。新しい部屋の間取り図も見ない。ただ、床に座り、時々立ち上がり、窓から街を眺める。

判断の重さは、今も消えていない。だが、その重さの正体が少しずつ見えてきた気がする。

午後、再び箱と向き合う準備をしながら、ふと思う。引っ越しは、物を減らす作業ではなく、自分の「判断の癖」を減らす作業なのかもしれない、と。

続きはまもなく

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