第1話
第一話 車輪の音
月曜日の朝、駅から徒歩圏内の新しいアパートに引っ越してから初めて、自転車で会社に向かうことにした。二十年近く毎日の通勤は電車だった。混雑した車両の中で、スマートフォンを握りしめ、到着駅で人波に流されるままに移動する。そんな日々を繰り返してきた身には、朝の空気を感じながら走るという選択肢は、まるで別世界のことに思えた。
自転車は中古で手に入れたものだ。ネットの広告欄で見かけたシンプルな一台。配送されてきた時、我ながら衝動的だと思ったが、今はそれが正解だったのか判然としない。とにかく、乗ってみることにした。
会社までのルートは地図アプリで調べた。距離にして五キロ弱。車道を避け、なるべく裏通りや自転車レーンを選んだ。朝六時四十分。街はまだ完全には目覚めていない。コンビニの看板だけが無機質に輝き、ところどころで掃除をする店舗の人を見かけた。
ペダルを踏む。足の筋肉に力が伝わり、車輪が路面を捉える。想像より心地よかった。風が頬を撫でる感覚を、ここまで意識したことがあるだろうか。電車の窓から見える風景とは異なり、自分がこの街の一部として移動している感覚がある。
信号で止まった時、ふと周囲を見回った。隣のビルの窓には、まだ明かりがついていた。深夜の仕事が続いているのだろうか。こういう人間ドラマめいた光景を、これまで見落としていたのかもしれない。あるいは、見ようとしなかったのか。
再び走り出す。心拍数が上がり、太ももが熱を帯びた。自分の身体がこんなに敏感に外界に反応することを、妙に新鮮に感じた。ずっと前かがみで、小さなスクリーンの中にだけ意識を向けていたのだ。
会社到着は予定より三分早かった。汗をかいている。シャワーを浴びるまでの数十分、この感覚を留めておきたいと思った。それが良いものなのか悪いものなのか、まだ判断できない。ただ、今日一日は違う視点で始まった。この続きを、また明日も体験してみよう。そんな考えが頭を占めていた。
続きはまもなく
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